終電が近い。
オフィスには、自分しかいなかった。
カタカタとキーボードを叩く音だけが響く。
「はぁ……終わらん」
小さくつぶやいた時だった。
ガチャ。
事務所のドアが開く。
「え、まだいたの?」
入ってきたのは、同期の美咲だった。
「そっちこそ」
「スマホ忘れた。最悪」
彼女は苦笑いしながら、自分のデスクへ向かう。
その姿を見て、少しだけ疲れが飛んだ。
「残業?」
「うん。資料修正。先輩の“ちょっと直して”って、全然ちょっとじゃないやつ」
「わかる」
二人で笑う。
静かなオフィスに、その笑い声だけがやけに響いた。
彼女はデスクに置きっぱなしだったスマホを手に取ると、帰るでもなく近くの席に座った。
「……で、あとどれくらい?」
「一時間くらいかな」
「うわ、地獄」
「帰れば?」
「いや、自分も少し仕事あるし」
そう言って、パソコンを開く。
またキーボードの音。
でも、さっきまでと違った。
誰かがいるだけで、こんなに空気って変わるんだ。
数分後。
「コーヒー飲む?」
彼女が給湯スペースの方を見ながら立ち上がる。
「飲む」
「ブラック?」
「よく覚えてるな」
「同期なめんな」
また笑う。
しばらくして、湯気の立つ紙コップを渡された。
「あっつ」
「ふふ、大丈夫?」
受け取る時、指が少し触れた。
「あ、ごめん」
「いや」
なんでもない。
本当に、なんでもないはずなのに。
少しだけ心臓がうるさかった。
「そういえばさ」
紙コップを両手で持ちながら、彼女が言う。
「入社した頃より、なんか話しやすくなったよね」
「そう?」
「最初、もっと怖い人かと思ってた」
「ひど」
「でも今は好きだよ、その感じ」
一瞬、時間が止まる。
「……その言い方、勘違いする」
「した?」
いたずらっぽく笑う顔が、不意打ちすぎた。
気づけば、仕事の手は止まっていた。
窓の外は、もう真っ暗だった。
でも、自分の気持ちは少し明るかった。
「終わったらさ」
彼女が立ち上がりながら言う。
「駅前でラーメンでも食べて帰る?」
「……いいね」
残業の夜なのに。
なぜか今日は、少しだけ帰り道が楽しみだった。


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