AIショート小説『選ばなかった春』

妻の親友が家に来る日は、少しだけ落ち着かない。

何か特別なことが起きるわけじゃない。

彼女は妻に会いに来るだけ。

僕はコーヒーを淹れて少し話をし、頃合いを見て自分の部屋へ入る。

いつもと変わらない休日。

それなのに、玄関のチャイムが鳴るたび、胸の奥がわずかにざわつく。

「久しぶり。」

玄関で笑う奈緒は、高校生だった頃とほとんど変わらない。

穏やかな笑顔も、ゆっくりとした話し方も、そのままだ。

「久しぶり。」

僕も笑って返す。

その何気ない挨拶の裏側を、妻は知らない。

たぶん、この先も知ることはない。

僕が奈緒に告白したことも。

そして、その返事を今でも忘れられないことも。

高校二年の春。

僕は一つ上の先輩、美咲と付き合い始めた。

きっかけは部活帰りだった。

駅へ向かう坂道で、美咲が突然立ち止まり、照れくさそうに笑った。

「私たちって、付き合ってるみたいだね。」

その言葉に、僕は照れ隠しをするように笑った。

「じゃあ、本当に付き合う?」

一瞬だけ驚いた美咲は、少しだけ俯いてから小さくうなずいた。

「うん。」

それが僕たちの始まりだった。

付き合い始めてからは、とにかく喧嘩が多かった。

連絡が遅い。

言い方が冷たい。

部活ばかり優先する。

異性との距離が近い。

原因はどれも些細なことだった。

放課後の教室で口論になり、駅のホームでは無言になり、家へ帰れば長いメッセージを送り合う。

「もう別れる。」

そんな言葉を何度口にしたか分からない。

それでも翌日になれば、どちらかが折れて仲直りしていた。

美咲が笑えば嬉しかった。

隣にいるだけで安心できた。

喧嘩ばかりだったけれど、僕は本当に美咲が好きだった。

幸せだった。

美咲には奈緒という親友がいた。

二人はいつも一緒だった。

感情がすぐ顔に出る美咲とは対照的に、奈緒はいつも穏やかだった。

誰かの話を最後まで聞き、笑うときは少しだけ口元を手で隠す。

人の悪口を言っているところも見たことがない。

僕と美咲が喧嘩をすると、奈緒は決まって美咲の味方をした。

「また泣かせたでしょ。」

廊下ですれ違うたびに、少し呆れたように言われる。

「泣かせてないって。」

「本人は泣いてるけど?」

そんなやり取りを何度も繰り返した。

そのたびに思っていた。

優しい人だな。

素敵な人だな、と。

でも、それ以上のことは考えなかった。

いや、考えないようにしていた。

奈緒は美咲の親友で、僕は美咲の恋人だった。

それだけで十分だった。

美咲が高校を卒業すると、学校は急に広く感じるようになった。

放課後になっても、校門で待っていてくれる人はいない。

その頃から、同級生や後輩の女の子に声を掛けられることが増えた。

「今度遊びませんか?」

「連絡先を教えてください。」

高校生だった僕には、それが少しだけ誇らしかった。

でも誰とも遊ばなかった。

僕には美咲がいた。

学校が違っても、会う回数が減っても、その気持ちは変わらなかった。

僕は自分なりに一途だった。

少なくとも、高校を卒業するまでは。

卒業してから、世界は一気に広がった。

制服を脱ぎ、アルバイトを始め、新しい友達ができた。

夜遅くまで遊び、今まで出会わなかったような人たちと話をする。

高校生だった頃は、美咲しか知らなかった。

でも社会へ出ると、魅力的な女性はたくさんいた。

「世界って広いんだ。」

そんな当たり前のことを、僕は初めて知った気になっていた。

今思えば、ただ浮かれていただけだった。

それから、美咲との喧嘩は少しずつ増えていった。

僕は遊ぶことが増えた。

連絡は遅くなり、約束を後回しにすることもあった。

美咲は怒る。

僕は束縛されているように感じる。

ある日の夜。

電話の向こうで、美咲が静かに言った。

「高校の頃と変わったよね。」

「変わるだろ。いつまでも高校生じゃないんだから。」

「そういう意味じゃない。」

そこから言い争いになった。

お互い、言わなくてもいいことまで口にした。

最後に、美咲が泣きながら言った。

「もう無理だと思う。」

少しだけ沈黙が流れる。

僕も意地を張ったまま答えた。

「……俺も。」

電話が切れたあと、不思議なくらい静かだった。

自由になった。

その時の僕は、本気でそう思っていた。

別れてからの僕は、遊んだ。

友達に誘われれば飲みに行き、新しく知り合った女性とも食事へ行った。

恋人が欲しかったわけじゃない。

自由を楽しみたかった。

そして、美咲がいなくても平気なんだと、自分に言い聞かせたかった。

でも、誰と会っても長続きはしなかった。

そんなある日、不意に奈緒のことを思い出した。

高校時代、美咲の隣で笑っていた奈緒。

僕が美咲を泣かせるたび、少し怒った顔をしていた奈緒。

思い返しているうちに、ようやく気付いた。

僕は昔から奈緒に惹かれていたんだ。

もちろん、美咲を裏切ろうと思ったことは一度もない。

だから、その気持ちは心の奥へ押し込めていた。

認めてしまえば、美咲にも奈緒にも失礼だと思っていたからだ。

でも今は違う。

美咲とは別れた。

もう、自分の気持ちをごまかす必要はない。

そう思った僕は、久しぶりに奈緒へメッセージを送った。

「久しぶり。元気?」

送信ボタンを押したあと、少しだけ手が震えていた。

送信ボタンを押したあと、少しだけ手が震えていた。

返信なんて来ないかもしれない。

そう思っていたのに、奈緒からの返事はその日のうちに届いた。

「元気だよ。久しぶりだね。」

それだけの短いメッセージだった。

それでも、嬉しかった。

それから僕たちは、少しずつ連絡を取るようになった。

仕事のこと。

最近観た映画のこと。

高校時代の友達の近況。

美咲の話は、お互いほとんどしなかった。

避けていたわけじゃない。

ただ、話題にする必要がなかった。

やがて二人で食事へ行くようになった。

最初に入った店は、駅前にある小さな居酒屋だった。

「二人で会うのって、なんか不思議だね。」

席に着くなり、奈緒が笑った。

「そう?」

「だって高校の頃は、いつも美咲がいたから。」

その名前を聞いた瞬間だけ、胸が少し痛んだ。

でも奈緒はすぐ別の話を始めた。

その優しさが、奈緒らしいと思った。

それから何度か食事をした。

休日にカフェへ行ったこともあった。

映画を観た日もあった。

一緒にいる時間は、不思議なくらい心地よかった。

無理に話題を探さなくても沈黙は苦にならない。

奈緒は相変わらず穏やかで、誰かを悪く言うこともない。

話をするときは、ちゃんと相手の目を見て笑う。

高校生の頃は気付かなかった奈緒の魅力を、一つずつ知っていく時間だった。

会うたびに思った。

もっと話したい。

もっと一緒にいたい。

帰り道になると、もう少しだけ時間が止まればいいのにと思うようになっていた。

その気持ちは、もう隠せなかった。

ある日の帰り道。

駅へ向かう夜道を二人で歩いていた。

昼間に降った雨で、アスファルトはまだ少し濡れていた。

街灯の光が水たまりに映っている。

奈緒は水たまりを避けようとして、少しだけ僕の近くへ寄った。

その距離だけで、胸が苦しくなった。

駅の入り口が見えたところで、僕は立ち止まった。

「奈緒。」

振り返った奈緒が、不思議そうな顔をする。

「どうしたの?」

頭の中では何度も練習していた。

なのに、その瞬間になると何も出てこない。

心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。

「俺……。」

一度言葉が止まる。

深呼吸をして、もう一度口を開いた。

「奈緒のことが好きだ。」

言った瞬間、胸のつかえが一気に外れた気がした。

奈緒は驚いた表情のまま、何も言わなかった。

しばらく沈黙が続く。

やがて小さく息を吐いて言った。

「少しだけ……考えさせて。」

「うん。」

それしか言えなかった。

返事を待つ数日間は、とても長かった。

携帯電話を見る回数が増えた。

通知が鳴るたびに期待した。

奈緒と付き合えたら。

今度はどこへ行こう。

もっと奈緒のことを知りたい。

そんなことばかり考えていた。

奈緒からメールが届いたのは、告白から四日後だった。

画面いっぱいに並ぶ文章を、ゆっくり読み進める。

最後に書かれていた言葉を、今でも忘れられない。

「あなたのことが嫌いなわけじゃない。」

その一文に、少しだけ希望を持った。

でも、続きがあった。

「ただ、私の中では、あなたはずっと美咲の彼氏だった人なの。」

高校時代。

喧嘩をしては仲直りを繰り返していた二人。

楽しそうに笑っていた二人。

その姿を、奈緒はずっと隣で見てきた。

「あなたと付き合う姿が、どうしても想像できない。」

それが奈緒の答えだった。

僕は何度もメールを読み返した。

好きじゃないと言われたわけじゃない。

嫌われたわけでもない。

ただ、タイミングが違った。

そんな気がしてしまった。

もっと時間を重ねていたら。

もっと奈緒の中で、僕が「美咲の彼氏」ではなく「僕自身」になってから告白していたら。

結果は違ったんじゃないか。

そんな考えが、何年経っても消えない。

もちろん、それは僕の勝手な想像だ。

どれだけ時間を重ねても、結果は同じだったかもしれない。

それでも。

あの時の僕は早すぎた。

その後、奈緒と会うことはなくなった。

連絡もしなくなった。

しばらくして、美咲から連絡が来た。

「元気?」

たった二文字のような短いメッセージだった。

久しぶりに会った美咲は、高校生の頃より少しだけ大人になっていた。

僕も少しだけ変わっていた。

お互い、別れていた間のことを細かく話すことはなかった。

僕は奈緒に告白したことを話さなかった。

美咲も聞かなかった。

少しずつ会うようになり、以前よりゆっくり話すようになった。

高校生の頃みたいな意地の張り合いは減っていた。

失って初めて分かることがある。

言わなくていい言葉。

伝えなければいけない言葉。

僕たちはそれを少しだけ覚えた。

やがて復縁し、結婚した。

子どもも生まれた。

今、僕は幸せだ。

美咲と結婚したことを後悔した日は、一日もない。

休日には家族で出掛け、夜には他愛もない話をしながら笑う。

この人生を選んでよかったと思っている。

だからこそ、不思議なのだ。

妻の親友である奈緒が家へ遊びに来るたび、心の奥で別の人生を想像してしまう。

「コーヒーありがとう。」

奈緒がマグカップを受け取る。

目が合う。

昔と変わらない穏やかな笑顔。

あの日の告白を覚えているのか。

覚えていて知らないふりをしているのか。

それとも、本当に忘れてしまったのか。

僕には分からない。

「今日、夕飯食べていけば?」

美咲が奈緒に声を掛ける。

「いいの?」

「もちろん。久しぶりなんだから。」

二人は楽しそうに笑っている。

僕はキッチンへ立ち、夕飯の準備を始めた。

包丁で野菜を切りながら、ふと考えてしまう。

もし、あの時。

もう少しだけ待っていたら。

奈緒の中から、「美咲の彼氏だった僕」というイメージが薄れてから気持ちを伝えていたら。

僕たちは、どんな人生を歩いていたんだろう。

どんな家に住み。

どんな休日を過ごし。

どんなことで笑い。

どんなことで喧嘩をしていたんだろう。

その想像に答えはない。

「どうしたの?」

美咲がキッチンをのぞき込む。

「ぼーっとしてたよ。」

「ちょっと考え事。」

「包丁持ってるんだから気を付けてね。」

「分かってる。」

美咲は笑ってリビングへ戻っていく。

その背中を見送りながら、僕は静かに息を吐いた。

今の人生は幸せだ。

そう胸を張って言える。

それでも、人はときどき考えてしまう。

選ばなかった人生のことを。

奈緒の笑い声がリビングから聞こえてくる。

僕は一度だけ手を止め、その声に耳を澄ませた。

そして何もなかったように、もう一度包丁を動かした。

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